

今やファッションとして日常に根付いているグラミチだが、ルーツは紛れもなくクライミングにある。それは、1970年代に“ストーンマスター”と呼ばれた伝説的ロッククライマー、マイク・グラハムによるクライミングパンツに端を発するブランドだからだ。本連載では、クライミングに心を掴まれたクライマーたちのメンタリティやライフスタイル、クライミングとの向き合い方に迫る。改めてグラミチの原点を辿る道標には、図らずも今を生き抜くエッセンスが内包されていた。
- NAME
- Don240
- TITLE
- ジムオーナー/イラストレーター
- AREA
- STANCE
- PROFILE
- 1993年生まれ。香川県出身。四国最大規模のジム「STANCE」のオーナーとしてクライミングの普及に尽力すると同時に、イラストレーターとしても活躍。自らのグラフィックをデザインした「CLIMB JUNKIE」というブランドも展開するマルチプレイヤー。ちなみに、Donはうどんから、240は姓の西尾に由来する。

どっしりと構えた風貌とブレない眼差しから、芯の強さが滲み出るDon240さん。生まれ故郷の香川県に四国最大規模のジムを構えながら、ジムの2階にあるアトリエでペンを握るイラストレーターとしての顔も持つ。クライミングとアートの架け橋を描く、Don240のスタンスとは?



―――まずは、クライミングを始めたきっかけについて教えてください。
たまたま地元に、国体の練習用で使用する12mほどの公共の壁があったんです。小学6年生くらいのときに、親に連れて行ってもらって。その時、女子高校生の国体選手が登っているのを見て「俺もいけるでしょ」って思ったんですが、全然ダメでした。それが悔しくて「またすぐ行きたい!」っていうマインドになり、始めました。
その後、代表を目指して練習を重ねました。四国では敵なしだったんですが、全国大会に出たらボコボコにされて、トップ選手たちとの次元の違いを痛感しました。高校卒業までは粘っていましたが、それ以降クライミング選手を目指すことは諦めました。
―――その後はどういった進路を選んだのですか?
農業高校で造園コースを選んでいたので、卒業後は庭師に。ですが、なんだかんだ上手く行かず1年で辞めました。ちょうどその後くらいに、服飾系の学校に通っていた友人が亡くなってしまったんです。命が尽きる寸前まで絵を描いていた姿を目の当たりにして、自分も本当にやりたいことは何なのかと自問自答しました。そして、選手でなくともクライミングに関わる仕事がしたいんだと気づき、地元でジムを経営したいと思いました。
たまたま地元に、国体の練習用で使用する12mほどの公共の壁があったんです。小学6年生くらいのときに、親に連れて行ってもらって。その時、女子高校生の国体選手が登っているのを見て「俺もいけるでしょ」って思ったんですが、全然ダメでした。それが悔しくて「またすぐ行きたい!」っていうマインドになり、始めました。
その後、代表を目指して練習を重ねました。四国では敵なしだったんですが、全国大会に出たらボコボコにされて、トップ選手たちとの次元の違いを痛感しました。高校卒業までは粘っていましたが、それ以降クライミング選手を目指すことは諦めました。
―――その後はどういった進路を選んだのですか?
農業高校で造園コースを選んでいたので、卒業後は庭師に。ですが、なんだかんだ上手く行かず1年で辞めました。ちょうどその後くらいに、服飾系の学校に通っていた友人が亡くなってしまったんです。命が尽きる寸前まで絵を描いていた姿を目の当たりにして、自分も本当にやりたいことは何なのかと自問自答しました。そして、選手でなくともクライミングに関わる仕事がしたいんだと気づき、地元でジムを経営したいと思いました。



―――ご友人が心の奥底に眠っていたものを思い起こさせてくれたんですね。
はい、間違いなくその瞬間が人生の分岐点。まずはノウハウを叩き込むため、決心が着いた1週間後にはバックパックを背負って、東京へ向かっていました。とりあえず、どこのジムで働くのがベストなのかを探るため色々巡りました。気になるジムが見つかると、「働くかどうかは分からないのですが、このジムの壁が面白いので、店長さんを呼んでもらえますか?」と言って面接してもらいました。めちゃくちゃ失礼な話なんですけど(笑)。
4店舗ほど面接を受けさせてもらったなかで、川崎にある「PUMP2」で働くことになりました。国内最大級のリードウォールがあるし、フルタイムで働けるとのことだったので、「じゃあ来月来ます!」と言って、1ヶ月後から働き始めました。
はい、間違いなくその瞬間が人生の分岐点。まずはノウハウを叩き込むため、決心が着いた1週間後にはバックパックを背負って、東京へ向かっていました。とりあえず、どこのジムで働くのがベストなのかを探るため色々巡りました。気になるジムが見つかると、「働くかどうかは分からないのですが、このジムの壁が面白いので、店長さんを呼んでもらえますか?」と言って面接してもらいました。めちゃくちゃ失礼な話なんですけど(笑)。
4店舗ほど面接を受けさせてもらったなかで、川崎にある「PUMP2」で働くことになりました。国内最大級のリードウォールがあるし、フルタイムで働けるとのことだったので、「じゃあ来月来ます!」と言って、1ヶ月後から働き始めました。

―――もの凄い行動力ですね! ジムでは実際どのようなことを学んだんでしょうか?
「PUMP2」では、接客からジムの運営に至るまでイチから学ばせて頂きました。2年働いた後、環八沿いにあった「B-PUMP荻窪」が駅前に移転するタイミングで、ジムを経営する際のお金の流れを学ぶなら移った方がいいんじゃないかというアドバイスを受けて、そうすることに。トータル3年で地元に戻ってジムをオープンする予定だったので、「B-PUMP」には1年間だけお世話になろうと思っていたのですが、結果4年間もお世話になりました(笑)。
―――何があったんですか?
「B-PUMP」が、adidasやRed Bullなどのビッグイベントを持ち込むことで、世界的に注目され始めていたんです。「それはやめられないでしょ! そんなの学べちゃっていいんですか!」みたいな感じで、次から次に開催される大きなイベントに向けて奔走しているうちに、気づけばそれだけの月日が流れていました。ただ、25歳までにはジムを出したかったので社長に相談を。すると「社長としては今、人が抜けられると困るが、経営者としての立場からすると、今すぐ辞めて春に出しなさい。春は人が一気に動く時期だから」と背中を押してくれたんです。「PUMP」との出会いがなければ、今の僕はないといっても過言ではありません。
「PUMP2」では、接客からジムの運営に至るまでイチから学ばせて頂きました。2年働いた後、環八沿いにあった「B-PUMP荻窪」が駅前に移転するタイミングで、ジムを経営する際のお金の流れを学ぶなら移った方がいいんじゃないかというアドバイスを受けて、そうすることに。トータル3年で地元に戻ってジムをオープンする予定だったので、「B-PUMP」には1年間だけお世話になろうと思っていたのですが、結果4年間もお世話になりました(笑)。
―――何があったんですか?
「B-PUMP」が、adidasやRed Bullなどのビッグイベントを持ち込むことで、世界的に注目され始めていたんです。「それはやめられないでしょ! そんなの学べちゃっていいんですか!」みたいな感じで、次から次に開催される大きなイベントに向けて奔走しているうちに、気づけばそれだけの月日が流れていました。ただ、25歳までにはジムを出したかったので社長に相談を。すると「社長としては今、人が抜けられると困るが、経営者としての立場からすると、今すぐ辞めて春に出しなさい。春は人が一気に動く時期だから」と背中を押してくれたんです。「PUMP」との出会いがなければ、今の僕はないといっても過言ではありません。



―――2019年に地元である香川に戻り、クライミングジム「STANCE」をオープンさせました。どういったコンセプトのジムにしようと思っていたのですか?
ジムをそもそも出そうと決めたのは、井の中の蛙だったからです。四国で1番強いから、全国でも通用すると思っていたら、全然ダメだった。当時、選手達と仲良くなって練習方法を聞くと、練習量では埋まらない環境という壁があったんです。香川にはそもそもちゃんとしたジムがないとか、新しいホールドに接する機会もないとか、大会もなければ指導者もいない……。ずっと言い訳ばかりしていたのですが、香川から世界を目指す次世代の選手のために、これらの言い訳を潰していこうと思ったんです。
「PUMP」で基礎を学んだうえで、地方だからできることもあると気づきました。「STANCE」は四国最大規模で敷地面積が200坪。東京でこの箱を運営しようとしても、金銭面でめちゃくちゃハードルが高いんです。そして、これだけの広さがあると壁を所狭しと設けたがるんですが、僕は「THE NORTH FACE CUP」やジャパンツアーなど、大きな大会を香川でやりたかったんです。だから、そういった大会を開催することを想定し、観客が観戦できるスペースを広くしました。“実践的な大会を想定したジム”がコンセプトですかね。
―――そういう意図があったんですね。
若い選手達がちゃんと練習できる環境を整えるだけでなく、一流の選手が出場するコンペを間近で気軽に観戦できるようにしたくて。香川から日本全国へ、そして世界に羽ばたく選手が生まれてくれたらと願っています。
ジムをそもそも出そうと決めたのは、井の中の蛙だったからです。四国で1番強いから、全国でも通用すると思っていたら、全然ダメだった。当時、選手達と仲良くなって練習方法を聞くと、練習量では埋まらない環境という壁があったんです。香川にはそもそもちゃんとしたジムがないとか、新しいホールドに接する機会もないとか、大会もなければ指導者もいない……。ずっと言い訳ばかりしていたのですが、香川から世界を目指す次世代の選手のために、これらの言い訳を潰していこうと思ったんです。
「PUMP」で基礎を学んだうえで、地方だからできることもあると気づきました。「STANCE」は四国最大規模で敷地面積が200坪。東京でこの箱を運営しようとしても、金銭面でめちゃくちゃハードルが高いんです。そして、これだけの広さがあると壁を所狭しと設けたがるんですが、僕は「THE NORTH FACE CUP」やジャパンツアーなど、大きな大会を香川でやりたかったんです。だから、そういった大会を開催することを想定し、観客が観戦できるスペースを広くしました。“実践的な大会を想定したジム”がコンセプトですかね。
―――そういう意図があったんですね。
若い選手達がちゃんと練習できる環境を整えるだけでなく、一流の選手が出場するコンペを間近で気軽に観戦できるようにしたくて。香川から日本全国へ、そして世界に羽ばたく選手が生まれてくれたらと願っています。



―――グラミチとの出会いについて教えてください。
香川でクライミングパンツといえば、問答無用でグラミチ一択でした。小学生のころは、買ってもらえなかったのですが、イケてる先輩から譲ってもらったのがファーストグラミチです。
その後、やっと親に買ってもらえたのが、セールになっていた真水色のグラミチパンツ。街中で穿きこなす勇気がなかったので、クライミングの際に愛用していました。
―――真水色は確かにパンチ効いてますね!
東京に行くまで、グラミチを街穿きする文化を知らなかったのもありますが、香川ではグラミチ=クライミングのメインギアとして根付いていました。カッコいい先輩達はみんな、グラミチを穿いて登っていたので今でもその残像はあります。今では街中でも穿きますが、僕にとってグラミチは、やっぱりクライミングパンツの象徴ですね。
香川でクライミングパンツといえば、問答無用でグラミチ一択でした。小学生のころは、買ってもらえなかったのですが、イケてる先輩から譲ってもらったのがファーストグラミチです。
その後、やっと親に買ってもらえたのが、セールになっていた真水色のグラミチパンツ。街中で穿きこなす勇気がなかったので、クライミングの際に愛用していました。
―――真水色は確かにパンチ効いてますね!
東京に行くまで、グラミチを街穿きする文化を知らなかったのもありますが、香川ではグラミチ=クライミングのメインギアとして根付いていました。カッコいい先輩達はみんな、グラミチを穿いて登っていたので今でもその残像はあります。今では街中でも穿きますが、僕にとってグラミチは、やっぱりクライミングパンツの象徴ですね。




――絵を描くことの原体験はなんだったんですか?
小さいころから絵を描くのは好きでした。O型の性なのか、興味のあることだけに没頭するというか。それが絵だったんです。特にハマったのがドラゴンボール。病院の待合室に置いてあって、1巻でおっぱいが出てくるじゃないですか(笑)。で、2巻も読んだら、またおっぱいが出てきて。すると、母親が「そんなにドラゴンボールが面白いんだったら買ってあげるよ」と、全巻買ってくれたんです。でも3巻から出てこないんですよね……。それでも一応全部読んだら、めちゃくちゃ面白かった。そこから絵を描こうと思った時に参考にするのは、ドラゴンボールでした。
―――子供ならではのエピソードですね! 美大に行くとかは考えなかったんですか?
じつは高校生の時、アート系の専門学校に行こうかと悩んだ時期もありました。でも、ドラゴンボールを描くのは好きだけど、美術室にあるような銅像を描くのには興味ないなと思って。
――イラストレーターとして本格的に活動し始めたのはいつですか?
「B-PUMP」で働いていたときも、店内のポップやフライヤーのデザインをやっていたんですが、本格的には「STANCE」をオープンしてからです。というのも、オープンから半年後にコロナ禍になってしまい、ジムの運営が厳しくなったんです。ただ、いいタイミングだと思考を転換し、ちゃんとアーティストとして活動しようと決めました。
―――今では、企業からの依頼も増えたと聞いています。
有難いことに、多種多様なクライアントさんから仕事を頂いています。でも、元々やっているクライミング関係のアートワークは、別物というか、大切にしています。ぶっちゃけた話、どんなに予算がなくても、自分を育ててくれたクライミングに還元したいという想いがとても強いので、受け続けようと思っています。
――クライミングとアートを繋ぐ架け橋のような存在ですね。
スポーツとしてだけでなく、クライミングがカルチャーとしてもっとカッコよく広がっていくため、僕の描くアートがその一助になれば最高だなと思っています。
小さいころから絵を描くのは好きでした。O型の性なのか、興味のあることだけに没頭するというか。それが絵だったんです。特にハマったのがドラゴンボール。病院の待合室に置いてあって、1巻でおっぱいが出てくるじゃないですか(笑)。で、2巻も読んだら、またおっぱいが出てきて。すると、母親が「そんなにドラゴンボールが面白いんだったら買ってあげるよ」と、全巻買ってくれたんです。でも3巻から出てこないんですよね……。それでも一応全部読んだら、めちゃくちゃ面白かった。そこから絵を描こうと思った時に参考にするのは、ドラゴンボールでした。
―――子供ならではのエピソードですね! 美大に行くとかは考えなかったんですか?
じつは高校生の時、アート系の専門学校に行こうかと悩んだ時期もありました。でも、ドラゴンボールを描くのは好きだけど、美術室にあるような銅像を描くのには興味ないなと思って。
――イラストレーターとして本格的に活動し始めたのはいつですか?
「B-PUMP」で働いていたときも、店内のポップやフライヤーのデザインをやっていたんですが、本格的には「STANCE」をオープンしてからです。というのも、オープンから半年後にコロナ禍になってしまい、ジムの運営が厳しくなったんです。ただ、いいタイミングだと思考を転換し、ちゃんとアーティストとして活動しようと決めました。
―――今では、企業からの依頼も増えたと聞いています。
有難いことに、多種多様なクライアントさんから仕事を頂いています。でも、元々やっているクライミング関係のアートワークは、別物というか、大切にしています。ぶっちゃけた話、どんなに予算がなくても、自分を育ててくれたクライミングに還元したいという想いがとても強いので、受け続けようと思っています。
――クライミングとアートを繋ぐ架け橋のような存在ですね。
スポーツとしてだけでなく、クライミングがカルチャーとしてもっとカッコよく広がっていくため、僕の描くアートがその一助になれば最高だなと思っています。

―――ご自身のブランド「CLIMB JUNKIE」もクライミングカルチャーを動かす活動のように感じます。
クライマーって、日常的に自分がクライマーであることを示したいと思うんです。でも、それがストレートに伝わるものではなく、周りから“それカッコいいね”って言われたときに、実はクライミングブランドのTシャツなんだ!って気づくものを作りたくて。
――例えばこのドードー鳥のTシャツとか?
ドードー鳥って、飛べない&走れない最弱の鳥なんです。だからこそ、逆に伸びしろしかないよ!っていうメッセージを添えつつ、ポップで気さくなドードー鳥を描き「Frank Tee」と名付けました。それで、国内のトップ選手にこのTシャツをバラまいたことがあるんです。で、Frankって“Fランク”っていう読み方もできるじゃないですか。“私は最底辺ですよ”という意味のTシャツをトップ選手がカッコイイ!とかカワイイ!とか言いながら着たり、SNSにあげたりしているのを、こっそり1人で楽しむっていう(笑)。皮肉をポップに表現できるのも、アートの魅力ですよね。
クライマーって、日常的に自分がクライマーであることを示したいと思うんです。でも、それがストレートに伝わるものではなく、周りから“それカッコいいね”って言われたときに、実はクライミングブランドのTシャツなんだ!って気づくものを作りたくて。
――例えばこのドードー鳥のTシャツとか?
ドードー鳥って、飛べない&走れない最弱の鳥なんです。だからこそ、逆に伸びしろしかないよ!っていうメッセージを添えつつ、ポップで気さくなドードー鳥を描き「Frank Tee」と名付けました。それで、国内のトップ選手にこのTシャツをバラまいたことがあるんです。で、Frankって“Fランク”っていう読み方もできるじゃないですか。“私は最底辺ですよ”という意味のTシャツをトップ選手がカッコイイ!とかカワイイ!とか言いながら着たり、SNSにあげたりしているのを、こっそり1人で楽しむっていう(笑)。皮肉をポップに表現できるのも、アートの魅力ですよね。



―――最後に今後の目標について教えてください。
まずは、ジムを継続して運営し続けることですね。そのうえで、アーティストとしてブランドとコラボレーションできたらいいなと思っています。
ボルダーとして強いわけじゃないし、セットが出来るわけでもないし、発信力があるわけでもない。
ただ、クライミングをもっとかっこいいカルチャーにしていくために、僕にしかできないことがあると信じて、ペンを握り続けていこうと思っています。
まずは、ジムを継続して運営し続けることですね。そのうえで、アーティストとしてブランドとコラボレーションできたらいいなと思っています。
ボルダーとして強いわけじゃないし、セットが出来るわけでもないし、発信力があるわけでもない。
ただ、クライミングをもっとかっこいいカルチャーにしていくために、僕にしかできないことがあると信じて、ペンを握り続けていこうと思っています。



Photo/Yu Tabata(NewColor inc)
